自己紹介(途中から飽きてノベル風) その④
前回記事
3行で終わらせようかと思ったのに、なんと長文も長文、第四弾まで来てしまいました。 一応「DTM」と無理くり関連づけるために毎度オススメの一曲でも貼りながら読んでみてください。 今年30歳、昭和のけつに生まれた世代。ゆとり世代初期でもあります。それでは、わたしの長い「はじめまして」第四弾をどうぞ。
※ロンドン、ウォータールー駅周辺でみつけた市場で見たことない種類のトマト達。かわいい。
思っていたほど1位になっても感動はなかった。
もっとこみ上げてくる何かがあってもよかったのに。
そう思いながら、順位表を見つめていた。
その結果は自分としてもちろん嬉しかったが、ほとんど連絡もせず、正月、お盆と帰らず、それでも支援し続けてくれていた母親には一つの結果が身を結んだことを報告しておこう。そう思った。
その表をコピーすべく職員室にプリンターを借りに行く。
「失礼します」
ノックをして、知っている先生がいないか見渡す。
美容学校の先生は、学校卒業後そのまま先生になる人も多く若い先生が多い。
一度、オフレコって事で聞いた話でも、しっかり意識をもって先生になっても、学生用のセミナーの講師として都内有名美容室から同期卒業生の人が来た時なんかに、「一度しっかり美容師してもいいな。」と離れていったり、「もう一度美容師やろう」と再び現場に戻る先生が多い。
つまり、人の移り変わりが激しいのだ。
そんな中、先の大会出場を決めたあたりから、ずっと教えを請いていた先生と目があう。
「おっ、白鬼さん、おめでとう!いやぁ、まさかやな。カット相当練習したやろ?」
まさかはこっちだった。
先生なら知っていて当たり前ではあるけれど、ついさっき発表された順位表。
把握されているとは思わなかった。
目は細めで、褐色でガタイがいい。 笑う時に片側の唇がひきつるように上がる。
冴えない感じ、と思っていたりしたときもあるが、面倒見が良いがちょっと毒舌。
そんな私の初めての師匠。
「お陰様で最後に結果が目に見える形で残せてよかったです。 頑固一徹、一人で精進する厳しさから、先生たちに教えをこうスタイルに変えてよかったです。」
「ほんま、いつも練習してたのは知っててそれでも結果でなくて悔しいやろなぁ、とは思っててん。悔しさも、喜びも深く理解できたならそれはほんまよかったで。改めておめでとう!」
そう言って、コピーの件も快く了承してくれた。
実際、そういう体制にシフトしたのは思うところあってだけれど、一人練習していたあの寂しい教室で声をかけてくれた先生でもあった。
その奥の席。学校で一番怖い、年長の女の先生がいる。 怖いというのは、勿論風体もそうなのだが(失礼)「挨拶、返事、礼儀、敬い」そう言った、社会に出てからの事をいつも心配して怒っていた先生だ。
前下がりの黒髪ボブに白に近い金髪のブロックカラーを前髪に入れている。声が酒でやけたようなダミ声だが、目は眼光するどく口は口角があがりピシッと整っている。
豊麗線だけが、その歳を誤魔化せない要因か。。。絶対言ったら殺される。
とりわけ出来の悪い世代だったらしく、国家試験の不合格者が出てしまうのでは。。と危惧するあまり、ストレスで「あんたらが心配かけるから十円ハゲできたやないか!ほんま、美貌が台無しやで! でもほんまよかった、とりあえずみんな合格やぁ。手のかかる学年やったでほんまに。」
と言いながら、金髪の部分は十円ハゲを隠すための処置だったと笑いながら言っていたのを思い出す。
そんな先生にもだいぶお世話になった。
「先生、白鬼です。今回最後お陰様で一位になれました。お世話様でした。」
と緊張しながら一言挨拶した。
「おう、おめでとう。でもあんたが目指す世界はもっと広いでー。学校のテストなんてちゃんと正解があるからな。 あんたが目指すところでは正解はない。 でも、正解をみつけていかなちゃあかん。誰かの意見を聞くことも大事。自分で考えるのも大事。最終的にあんたが決めて、その過程でいろんなフィルター通してみなさい。 あんたならやれるから。疲れたら大阪にも帰っておいでやー、いっぱいやろうやー」
とその鋭い眼光を一瞬も離す事なく激励をうけ、最後にケツを叩かれる。
もともと涙腺は弱かったけど、なんだか泣きそうになった。
それまで2年間過ごしてきた、「同じ言語の違う国」と勝手に思っていた大阪。
「ただいま」と言える人ができたこと。
そういう場所が、実家以外にできたこと。
人とのつながりなんて考えてなかった入学当初。
きっと「知っている人が居ると遊んでしまうから」と、最後まで知らない人、知らない街で終わるはずだった大阪がこの半年でグッと身近になった気がした。
卒業式後、赤鬼、ほか友人を含めみんな都内への引っ越しなどでばたばたした。
自分の目標は次は「お金を貯めること」
当時、1ポンド255円という超円安だったため、向こうで「美容専門学校」に入ろうと思っていたその費用は、生活費を考えても600万円近い額だった。
それを、一年以内には貯めないと腕が鈍る。と思い、期間を1年、目標を600万に決めて東京暮らしが始まった。
美容師は、アシスタント時代は言わずと知れたワーキングプアで拘束時間14時間以上、月収は税金、家賃など固定雑費を払うと手元に余るのは数千円。
どうやってみんな暮らしているのか謎だった。
なので、美容室での仕事は諦め、しかし「接客、英語環境、時給」その3つに絞って仕事探し。
うまい具合に見つかり1日労働22時間(3つの職場、移動時間も含む)月2回の休み。
やる気さえあればあとは若さでなんとか!! と思っていた。スタートはなかなかよかった。
初めて3ヶ月は60万円強の収入に家賃6万円。
交通費も自転車で通い浮かせていたので、50万円づつは貯金できていた。
「あっという間に貯まるわ!!東京の時給ぱねぇっす!」
地元のコンビニに貼られた求人の時給を思い出しなんて街だと驚愕。
しかし体がそうはいかなかった。
酒の配達をやっていたのだが、その最中に肉離れ。
1週間の休みを余儀なくされた。
それまで、遊ぶ暇などなく、とりあえず働いていた身体は休みが決まった瞬間に崩れ落ちた。
しかし、心は焦る。まだ半分の額もいっていない。友達は着々と美容師として道を進んでいる。自分だけ置いて行かれる。
「この一週間はとりあえず体を休めることに専念しよう。」
そう言い聞かせその日は泥のように眠る。
その頃からだ。
一つのストレス解消なのかもしれないが、暴食をするようになった。
一日一食で過ごしていたのに、「ピザLサイズ3枚、その後牛丼屋で2杯、帰りにコンビニでアイス」みたいな、フードファイターかよってくらい食べるようになった。
仕事復帰してからも、その暴食は休みの日に必ず続いた。
怒りやすくもなった。
たまに冷静になれる瞬間が訪れると「ストレスってこえーーーーっす」とか思いながら心を落ち着けた。
普段、怒らないまではいかないものの、大概の事は笑って許せるくらいの度量はあった。(と思う)
なにかオカシイ。
さらに一ヶ月。暴食だけでは収まらないイライラが襲う。あれはなんなんだろう。
ずっと、何かに苛立ちがあり、苛立ち過ぎてそれが何に対する苛立ちなのかさえ見失う。
それが更にイライラを加速させる悪循環。
コンビニにいって何か買おうとする。
しかし、何も欲しくない矛盾。
ふとレジ後ろのタバコに目がいく!「ストレスといえばタバコ!!」という謎のものさしから答えを見つけたように買おうとするが何を買っていいやら。
とりあえず、女子がすってそうなタバコなら弱い。という勝手な認識のもとタバコを手に入れ、自宅マンション階段で火をつける。
「???」
よく、わからない。 中学のころ悪ぶって吸っていた奴らが
「ふかしっていって肺に入れないで、煙吐いてるだけのやつがいる」
とか言ってたっけ。
もっとちゃんと吸うんだな、よし。
「???」
やっぱりよくわからない。
なんなら、イライラが増した。
1本、2本。その効果が現れるまで吸い続けてみる。
7本目あたりに、急に目眩に襲われる。そして吐き気。 視界が揺らぐ。
すぐに部屋に戻って、布団に横になる。
その日はそのまま轟沈。
翌日の仕事まで起きなかった。
あとで喫煙者に聞けば、いきなりニコチンを摂取したことによる「やにくら」だという。
何が良くて吸っているのか謎だった。
初めての喫煙はその後しばらくなりをひそめる。
フリーターになって10ヶ月目。 体の具合にあわせてシフトを削ったりしながら、目標額の半分を超え生活にも慣れたと実感していた。
そして、今まで自分のための時間などなかったので、何かをその時間で始めようと思った。
その中で、様々な分野のアーティスト、海外の人と交流すべく、グループを立ち上げ、イベントを立ち上げお互いに持ち合った作品を展示するノンジャンルの展覧会の開催、ランゲージエクスチェンジ交流会のようなものには積極的に参加した。
そうしたイベントを、こういう無理なスケジュールにいれると当然、できない事がでてくる。
一度、一緒にイベントを立ち上げた仲間に声を荒げ怒られた。
何のせいかはわからないが、その方面での熱が急に冷める。
今考えれば、それで食べていこうとしていた人たちと、もともと学祭のような「絵画を見に来たけど、こういう作品もあるんだ」と訪れた美術館で味わうような、新鮮な感動をもっと手軽にできたら、と思っていた自分の温度差もあった。
今となっては謝れば済む事だったのに、「じゃあ今度は頼りますねー、次回の反省ができた。それでいいじゃないですか?」
などと相手を煽ってしまって、その方とはもう喧嘩別れ。 そういう人間関係がめんどくさくてそのグループも解散してしまった。
寄せ集めのグループに信頼も何もないとは思っていたが、仕事を割り振る事をしなければいけないな。。。など、マイナスには考えてはおらずむしろいい息抜きだった。
何しろ人と言い合いになるなんて、久しぶりの経験でそれすらなにか嬉しかった。
少し余裕の生まれた生活、新しく何かを始めながらの生活だったが、またしても仕事中階段途中で肉離れ。
一度やると起こしやすくなると医者には言われていたが同じ箇所の再発だった。
そして、それはまたしても酒の配達をしている最中、階段を重いビール樽を一気に4つ持ちながら上がっている時だった。 辛うじて、自身も、樽も落下を防いだ。その時、思った。
「これ、死ぬかもしれないな。」と。
もしくは、怪我。
腕や手の怪我を恐れてスノースポーツは一切避けてきた。
練習ができなくなるし、さほど興味がなかったのもある。
しかし、この時思った。
これじゃ続かない。
それから、一日の中で掛け持つ職場の数を減らした。 シフトを減らして40万くらいの収入になるように生活を変えていく。
だが、それは焦りを募らせるばかり。
もうすぐ期限の1年が経過する。
他の友人たちはどうしているだろう。連絡はこの生活始まって1ヶ月が過ぎた頃にとったきりだ。
働きたかった。
美容師として一歩も動いていない自分が悔しくて仕方がなかった。
ある日働いていたレストランのお客さんに言われたことがある。
「好きなこと仕事にするもんじゃないよー!現実は違うからさ! このまま飲食業やりなよ!あってるよ!仕事との距離感もあってる」
と。
いつも僕がいることを確認してから予約を入れてくれる常連さん。
もちろん悪気があってそういう発言をしたわけではない。
ただ、美容師じゃない職業に合ってると思われたのがとても気に食わなかった。
そうして決めた。
もう、一度渡英してしまおうと。
それなりに貯金もできた。
あっちで、ホームレスでもなんでもやってやる。
とりあえず、働かせてくれと。
そう言いに行こう。
これだけ、やる気のあるやつ世界まわってもなかなかいないぞ、と自分を示しに。
思い立ってから行動ははやいほうで、即日職場に退職の申し訳の電話をかけ(だいぶ怒られた)、住まいの引き払いを決め、翌月のフライトのチケットをとった。
観光だと6ヶ月有効のビザ。
どうなるか分からないにせよ、片道だと入国させてもらえないとの情報だったので、往復チケットの帰路を3ヶ月後に設定して購入。
小学生の頃、親が実家の引越しのときに、大家さんに手紙を書いていたのを思い出す。
それに習えと、山手線圏内に安い家賃設定をしていたそのマンションに助けられた部分が大きかったのもあって、大家さんに手紙を出してみた。
「拝啓 立春を迎え新たな芽吹きを感じる季節いかがお過ごしでしょうか。 この度は短い間でしたが、大家様の手持ちの物件に安く住まわせてもらってとても感謝しています。初めての東京は夢を追うべくお金を貯めるためだけに来ました。当初の目標がかわり少し早く目的の地へ向うことになりました。 一度もお会いできず、このように簡単な挨拶になりますが、お世話になりました。 また、戻ってくる事があれば是非また住まわせていただきたいくらいです。 これから、ようやく暖かくなってくるでしょうが、寒暖差のある日も多くなると思います。どうぞご自愛なさってください。素敵な春が訪れる事を祈っています。 敬具」
そんな文章。
頭悪い自慢はしたくないが、高校時代、現文、古文ともに0点を叩き出し、仮進級に追い込まれた経験があるので、漢字は携帯で変換してしらべて、なんとなくどっかで聞いたような季語をちりばめ、自分にしてはよくかけました。と思えた。
退去日前日に日本に置いていく荷物を実家に届け、半年は帰らないと明言した自分をサプライズで地元の友人が集まり激励会をしてくれた。
そして東京に戻るときには少し大きめのバックに少しの下着や靴下。変えたポンドをゴソっといれて。
あとは携帯の充電セットなどだけでスーツケースも持たずに渡英を決めていた。
今考えれば死にに行くのか。と言ってやりたくなる。
いやいや、PCくらい持って行こうぜ! 寒いしアディダスジャージだけじゃ死ぬだろ!!
部屋の受け渡しのためマンションを訪れていて、最後、ポストを開ける。
電気代の請求書など以外に、初めて自分宛に手紙が届いていた。
大家さんからだ。その内容はおおまかに
「お手紙ありがとう。お部屋を気に入っていただけたみたいで良かったです。私は現在病床にあるため、自分で使っていたマンションを貸し出しています。
僕にも昔は夢があり、今はそれとは違う夢を持っていますが、様々な事で諦めてしまった当時の夢を「もし、諦めずに続けていれば」と悔やむ事があります。
若い子達がお金が理由で何かを諦める事をしないように安く貸し出しているつもりでした。
そして夢のある若い子が実際に入居し、現実と戦いまた人生の岐路に、こうして手紙をくれたことが嬉しい。
それが自分の生きる活力になり、会った事も無いかもしれないですが、その夢目標を私にも応援させてください。
異国の地で辛い事があったら苦しいかもしれません。どうか、今までしてきた努力を信じ諦めず進んでいってください。お体には気をつけて。」
そういった内容だった。
親の叱咤激励、友達と交わす旅立ち前の杯、それと同じくらい背中を押してくれた。
繋がりも感じた。
絶対に夢を掴む。
これから目標が変わっていく事もあるかもしれない。
でも、それは生まれて最初に描いた夢を実際に描いてからだ。
そう決めた。
決まってしまったのだ。
続く。。。。。
ばーーーっと書いてしまいました。今だに何のために書いているか分からない自己紹介シリーズですけど、30年生きてると色々あるもので、思い出した事全て書いていたら、もういったいどれだけの文字量になるのか。
そんな、文字をタイプするごとに檻のように溜まった記憶が浮かび、思い出されるのが楽しいのかもしれません。
もう少しお付き合いを♪(´ε` )