自己紹介(途中から飽きてノベル風) その①
※その時代、その頃を思い出す楽曲を添えながらノンフィクションとフィクションの狭間を漂いながら書いていきます���(´Д` )※
1987年この世に生を受けます。生まれたいか生まれたくないかの希望調査は無く強制的に排出です。
6歳 親の勧めでヤマハピアノ教室に通います。初めて話した言葉が「器用貧乏」な私ですが、なんと1年続きました!「将来やりたい事が出来た時に、興味があるものが出てきた時、できない事が一歩を踏み出さない理由にならないよう」という教育指導があり、様々な稽古事をやったわけですが、ほとんど半年続かず辞めていってしまった。その中ピアノだけ一年続くという快挙。
しかし、その一年間はずっと「ぶんぶんぶん」をいかに早く弾けるかに時間を費やし、今でも10秒で全部弾き終えます。
コンサートホールでの発表会でも緊張を跳ね除け10秒を切るタイムを記録したのですが、そこはまだ6歳。緊張があったのか、鍵打が弱すぎて最前列にいた母も「いつ弾き始めていつ終わったかわからなかった」といわせるほどの「閃光のピアニシシシモピアニスト」でした。(ピアニシシシモは極極々弱くという意味)
その頃、虫研究家になるのが夢だった私はその才能を破棄し音楽から退き、毎日虫取りに勤しみます。
6歳上の姉がいたのとTVがあった(今はもう10年以上TVの無い暮らしをしています)ので、CDセールスが握手鍵を付けなくてもミリオンを叩き出していたあの頃の流行った音楽達は生活の傍らで流れていました。
姉の音楽の趣味の影響は色濃く、「CHAGE&ASUKA」「GLAY」「B'z」とまったく同じ趣味をなぞっていった一方、姉も興味を示さなかった「リッキーマーティン」を移動中もウォークマン(カセット)で聞くという洋物への興味を示します。
※わたしの青春といえばGLAY。有名曲もいいですが、この曲はベースのジローさんがつくった曲。歌詞もじんわりしみじみします。
※郷ひろみさんの「ゴールドフィンガー」の元曲です。でも、リッキーマーティンさんの他の曲もすごくいい曲多いんですよ!このジャケットのアルバムぜひ聞いてみて!
※この曲はもうイントロが神だし、思春期のわたしの心をぐっとつかみました。大人になってから聞いてもとてもいい曲。若い子にいっても知らなかったりするからジェネレーションギャップ。略してジェネギャ。
そして、離れていた音楽への興味が再び戻る事になります。 姉が吹奏楽を小中高と続けていた事もあり、小学校中盤に吹奏楽に入ります。楽器も姉の意思を継承しトロンボーン。
大きすぎる才は隠そうにも表れてしまうもので、初日マウスピースを手渡され「これが吹けないと楽器はならない」と渡され見事に一発で弾いて見せました。
その時、世界は一瞬震え、世界中のトロンボーン奏者は何かを感じ取り、空を仰いだと記されています。
しかし一方で、大きすぎる才は自分を死へと誘う諸刃の剣。楽譜が全く読めないという致命的な事があり、「読めるまでは大太鼓」とパーカッションへ移動となったのです。
はっきりいって、楽譜をよむ事をしようとしなかったので、リズムに合わせてなんとなく叩いていたという記憶しかありません。発表会では曲の山場に大太鼓のパートがありましたが、気持ちよく叩いていたら「叩かなくていい」と、ティンパニーの方と一瞬スイッチするという神技を披露。トリプルアクセルを決めながらの楽器シフトは中々見られません。
指揮者と目線を合わせながら叩く大太鼓の熱気に煽られ、パートがなかったティンパニでしたが、私のなかのアーティストの血がうずいてしまいちょっとだけならと、ティンパニを叩いた時の、指揮する先生の表情は、今でも僕の胸に「あまりにも強大な才をむやみに体現してしまうと、一般の人に絶望を与えてしまう」という教訓になりました。
時は中学生になり、ここで再び音楽と出会う事になります。
テニス部に入部し、ワックスをつける事を覚えボサボサ頭。ここで、異性を意識し始めます。性欲花開の音がしたわけです。
僕の中学時代「もてたい」
それしか考えていませんでしたが、平安時代ではオカメ顏が美人と言われたように、この頃の私のルックスは前衛的すぎて時代が追いついていませんでした。よって、私は考えたのです。「武器がいる」と。
そう思いバンドブームの背景もあり、同志をあつめバンドを組むわけです。
片親だったんですが、食べれないほど貧乏でもなく、でもちょっと周りの友達と今考えれば、住んでる家も、親が持ってる物とかも違ったなぁ、という具合の家庭でしたが、「ベースを買って欲しい」という私の要望は却下されました。
意気込んで「よし、バンドやるぞ!みんな、選択授業は音楽な!」
と誓ったのに、楽器を持てず。他にパートはない。きっと、あの時楽器を得られず音楽室の片隅でタンバリンを極めていたら、今のタンバリン芸人ゴンゾーさんの地位は危うかったと思います。
しかし、中学を終え、「もてる事から一人の女を愛す事」にシフトした従兄弟がお下がりでよければベースをくれると言ってくれたんです。
不思議なのは、あの時の親の顔。私よりも喜んでいた。大人になり親と飲む事もあり、処処で「貧乏だったけれど、それを子供には感じて欲しくなかった。」というのは、きっとこういう所に表れているんだと思います。感謝だぜ、マム!
武器を手にいれた私は、大好きだった「GLAY」をやりたいがため「みんなのやりたい曲やろう!」とあつめたメンバーを完全に無視し、ミスチルもラルクもルナシーもやらずGLAYコピバンを3年続けました。この時、ようやくタブ譜で読むのがカッコ悪く感じ譜面の読み方を覚えました。完成したものに魅力は感じない、ミロのビーナスの腕先を想像するような完成されていないものに、洗礼された魅力を感じる年頃だったので、今でも中途半端に読める知識です。
さて、この頃から僕は将来の夢が虫研究家から違うものへ変化していきます。
ベーシックはGLAYでしたが、彫刻刀でフレットを削りビリーシーンに近づこうと争いネックが曲がり悲しみ、意外ともてない憧れたバンドマンと自分のギャップを埋めながら、自分の未来に一つの光をみつけました。
※早弾きっていう音がもうかっこいい。技っぽい。特殊能力っぽい。そういえば、今年ミスタービッグまた日本でライブやるんですね。 ギターはまだリッチーなのかな?
※ビリーは動画で見るとその脅威がわかりますね。何このスパッツ。なにこのストラップの短さ。なにこのリストバンド。なにこのテクニック。同じベースじゃないみたい。
その光とは。。。
そう、『美容師になろう』とこの時誓ったのです。
楽器が輝いてもだめだ、自分がカッコ良くならなくちゃもてない!(物理
不純度100パーセントはもはや純度100パーセントといえるだろう。
「中途半端な正義が一番の悪」 かの松本人志さんがドラマ「伝説の教師」で言い放った名言です。
※このドラマで使われてるサウンドトラックも神なのでぜひ聞いてください。残念ながらiTune storeにはないんですね。
でもでも、悪でも正義でも、そこにあった気持ちは本物でした。
世界で活躍する美容師になろう。
そう思いました。
高校は進学校に進学。英語以外はまるで手はつけず、選択授業も音楽ではなく美術へ。
彼女なんかもできて、バイトをするようになり(親には内緒)夜遊びを覚え、友達はバイクに乗り出し、小学校から一緒だった友達とも離れ、色々なところから集まった高校という場所は「自由」といえば聞こえはいいが「義務教育」で否応なしに世の中に相手にされていたのに、急に自分の価値が薄くなって、存在感がなくなったような虚ろな感覚でした。誰も相手にしてくれなくなったような。
それでも、毎日何か起こらないかと、「ワクワク」はしていました。それでもただ流れていく時間は滞り、逆に何もない時が過ぎていったんです。
その頃は、今のようにスマホではなくガラケー。
ツイッターやインスタではなく、プロフとmixiにスタビ。田舎だったので、今じゃラップトップくらい一家に一台あるでしょうが、その頃はありませんでした。今より時間を持て余したが、田舎じゃワルぶってバイク乗るかタバコ吸うか駅で彼女と一緒に過ごすか。
なんとなくあった価値観は、「みんなと一緒は嫌」。バイクは親が反対していたのをしっていましたし、タバコは興味がありません。今では吸いますし、当時自動販売機でタスポなしで誰でも酒、タバコ買えていたことを考えればよく吸わなかったなぁ、と思います。
そんな時間を持て余す青春。
友人の兄貴がダンス教室をやってるということで最初の一ヶ月無料だというので行くことにしました。 その時は行ったこともない「クラブ」の営業前を使ってのダンスレッスン。
他の高校生でクラブに行くであろう人は少ないだろうし、「まだ未開拓」なエリアというのが、ダンスどうこうよりも行ってみる動機だったと思います。
美容師になると決めてはいましたが、「美容学校を出ないといけないから」という理由でそのために何かをすることは、英語を頑張るくらいで、ほかは何もしていなかった。しなくていいと思っていた。
今考えれば、あの頃、あの歳でもいいから海外へ行ってしまえばと思います。
テレビ番組「めちゃめちゃイケてる」で岡村さんと、ガレッジセールゴリさんがブレイクダンスバトルしているのを見てダンスのジャンルは自然に決まっていました。
「ブレイクダンス」4大ヒップホップカルチャーの一つ。 B-BOYのBはブレイクダンスのB。そのくらい歴史のあるダンスです。 ラップ、ブレイキン、DJ、グラフィティ。 そのブラックカルチャーにどっぷりはまっていきます。
ターンテーブルこそなかったものの、オールドスクールをルーツとする曲を聴き漁り、CD代にバイト代は消えて行きました。
今みたいに、ネットで調べりゃ一発!シャザムもサウンドハウンドもない。
クラブに通って、いい音さがして、DJに曲名おしえてもらって、東京の渋谷タワレコに買いにいく。ブックエースに借りに行く(都会でいうツタヤ)
ブラックカルチャーといってもヒップホップだけじゃありません。バンド時代の交友もあったので、ジャズやブルースといった曲もかじり、そこから派生するスウィングやダンスミュージックも聴くようになりました。
小学生時代持っていたカセットウォークマンも壊れて、時代はMDでした(響きがなつかしい)
こいつはとっても便利でSONY製のコンポをもっていたのですが、なんと、曲を0.1秒ごとに切り貼りの編集、さらにフェードもかけられる。
ダンスをする時の音源はこのコンポで朝までちまちまと編集しながらつなぎ合わせていました。ミックス機能こそなかったものの当時の高校生レベルでは良くやった方だと思います。
ブレイクダンス自体は、入門の技のレベルが高くて一緒に始めた子たちはぞくぞくと辞めていってしまいました。
1ヶ月頑張らないと、一つも技をできずに終わります。
ヒップホップカルチャーの先駆けでもあるアフリカバンバータは、ギャング同士の抗争で兄弟の命が奪われたりする現実を嘆きました。
そして、こういったんです。
「血で血を洗うような事をやめ、ラップでグラフィティでDJでブレイキンで争え。」
そういった取り組みが今のストリートシーンへ発展したと言われています。
CDをジャケット買いする癖はこの頃着いたと思われます。
※このアフリカバンバータのCDが欲しくて当時、かなり探すのに苦労したのを覚えています。 今じゃその辺に転がっているだろうと思ったのですが、レコード屋いかないとないかもですね。
争う相手いなかったですが、机はグラフィティの練習でいっぱいになり、休み時間はダンスの練習、放課後は、駅前の全身が写せるガラス窓の前で朝までダンスを練習。
BOTY 2005 - ICHIGEKI (JAPAN) - SHOWCASE [OFFICIAL HD VERSION BOTY TV]
※この頃、BATTLE OF THE YEARという世界大会が行われていて、そのビデオを買うとヒーローだった
その頃、やっと時が動き出した。血が流れ出した。学生であるが働けて、義務で勉強をやらなくなり、なんとなく憧れた自由というリングが自分の時計の針にかかっていたものが破れ、「生きている」感じがした。 もちろん、いきなり雷のようにその感覚が落ちてきたわけではなく、お金を稼いでも、勉強をしても、今の何も変わらなかった今が動き出した。
そのくらい、ダンスとの出会いは私にとって運命的でセンセーショナルなものでした。
バンドも、ダンスも各3年間。当時としては必死に、直向きに、楽しく取り組めていた。
なんとか進級して、卒業もギリギリだった私ですが専門学校へ無事行けました。
そして、一人暮らし。
専門学校は東京へ進む事も考えましたが、周りがたくさん都内にいくので「じゃあ俺は大阪にしよう」とある一校に絞り込みます。
無事入学、引越しが決まり落ち着いた頃聞いた話だと、人気の学校だったらしく、倍率は20倍以上。滑り止めなぞ考えていなかった私はゾッとしましたね。あれで落ちていたら、行くあてを無くし、きっとネオニートだったのではないかと。
しかし、運命は私の手の中に。 そのくらいあの頃は根拠のない自信がありました。楽しみでもありました。
中学後半ころから抱いた不純ではあるが「美容師」という目標の一歩目を踏み出せた事。
その学校は、ある程度自由な学校ですが技術に関して厳しかった。
月に一回技術テストがあり、学年での順位を張り出されるというから自信満々の私は一位しか目指してませんでした。
学校入学前に決めていた事。 決して友達を作らない。誰とも喋らない。技術を磨く事になんでも使う。
がむしゃらに練習しました。 寝る間もないくらい、毎日毎日。
そして初めてのテストの結果が張り出された時。私は絶望しました。 絶望です。 家で泣きました。
1位じゃなかった。
確か17位とかそこら。
すべて投げ打っても上には上がいた。 翌日には「こうでなくては面白くない」とぶつぶつ言いながら立ち直っていましたが、本心ではショックでした。 折角手にいれた一人暮らし、未開の地大阪、関西弁の可愛い子、はじめてきいたなんでやねん。
そんなワクワクそっちのけで、脇目も振らず練習したのに、一番じゃなかった事。
どんな奴が一番なのかと、同じクラスの自分より上位の人間を観察しました。
するとわかったのは、
「家が美容室」や「放課後家ではなく学校で先生に教えてもらいながら練習」、「友人と技術について語り合う時間」という私にはなかったものと都合のいい言い訳。
邪魔だと思って、見て見ぬふりをしてきたもの。生まれた環境はもうどうしようも無いにしても、後者二つは技術向上のためと自ら断ったものだっただけにショックでした。
アニメ「俺の青春ラブコメはまちがっている。」でもあるように、入学初期に友達を作る事をやめるとその後復帰は絶望である。一番の問題はプライドではあるにせよ間違いなく漕ぎ出し方を誤ったと感じた瞬間でした。将来生まれ変わるなら熊になりたい。
※比企谷八幡は本当に共感出来る。そしてこのアニメは神でした。
当然、プライドが高い僕はその後バイトを始めながらも、親の仕送り(まじかーちゃんサンキュー)と共に練習にかかるマネキンの購入や、カラー剤の購入代に使い、他の時間を練習に使いながらも一位にはなれず一年が過ぎていって、その頃にはもうなんとなく悔しいとかはなかった。 しょうがないんだって思っていた自分がいた。
ぜひこの頃の自分に「食戟のソーマ 全巻セット」をあげたい。
作中の
「一個しか正解知らない奴はもっとすごいものにはたどり着けない気がする」
「積み上げた努力を天才という一言でかたずけてしまう残酷さ」
って表現があったんですが、まさに何かひとつに固執してどうしたらよくなるか。より、何故一位になれないかの言い訳探しが多かった学生時代。
2年になったある日。「希望者海外研修」という申込み用紙が配られました。 中学の卒業旅行以来、学校行事は一切出席したことが無い(本心で団体行動が嫌いだった)ためためらったものの、まず目指している海外そのものをこの目で見なくては。という使命感から申し込む事に。月4万7,000円の家賃に10万の仕送りがあってバイトもしていた。親が学費も出してくれていた。 本当に社会人に成ると何て情けない事。と思うけど、当時の私は「成功するためには必要な犠牲、将来返す」と思っていたため、なんならもっと出せるなら出して欲しい。と思うくらいは社会人的観点ではクズ野郎だったのでお金を貯めようと思ったらすんなり溜まった。
そして、海外研修説明会。
ロンドン、パリ各一週間。機内を除いてホテルでの滞在。なんと、それは2人1組の相部屋。
記述の通り、ここまで一切友達作りをしてこなかった自分にとっては「なんたる拷問」と唇が震え無いように必死に噛み締めその時を待っていた。
そう、他に余り物がでてくる瞬間を。
(こっから便宜上記憶が新しいのでノベルっぽく書きます)
「なぁ白鬼。」
友達もいなくて一人倍の値段払って一人部屋を希望するか、ここはこの間掃除当番が一緒だったあいつ、あ、くっそ他の奴と組んでる。と四苦八苦している時、話しかけてくる影一つ。
「僕と一緒の部屋にならへん?」
と声をかけてくる人がいる。
「え、なんで。え、なんで。いや、乗るしか無い。このビックウェーブに」と脳内混乱中であったが、そいつは以前から同じクラスにいた学級委員長。接点はなかったものの、水が高い所から低い所に流れるように、りんごが重力に逆らえず地面に自らの重さで池に落ちるようにあっけなく。
「そうだよね」
と、よく分から無い返事でオッケーの意を伝えた。目線だけは負けじと合わせてやった。
その赤鬼は以前から授業中におしゃべりで五月蝿くなると「うるさいでー」と委員長っぷりを発揮していた。でも「ノリは悪そう、真面目」(上から)がその印象で、私と同じダークサイドに片足踏み入れていた。私と違うのはきっちりグループにアサインしていて、お昼お弁当を友人と食べていた。
朝早く練習しに教室に入ると、赤鬼も大概いてずっとZEEBRA,般若、MUROなどのキックの効いたサウンドをヘッドホンから漏らしながら練習していた。
私はというと、弁当など作る時間もなく、かといって近くのファストフードやファミレス、その他コスパのいい店には学生が溢れており、一人を望んでいながら、「独りになっちゃっている」という哀れみは受けたく無い。とかいう、自意識の塊だったため、おっさんしか足を運ばなそうな定食屋にコソコソと通っていた。
なんせ500円以上もランチで取られるので、コンビニでおにぎりを買ってイヤホン爆音(その頃はGulliver get,Akiko,などのjazzよりの音楽が好きだった。)で教室で食べ、すぐに練習を初めて周りを見ないよう時間をつぶしていた。
ガリバーゲット : 紅い月~あの人に愛されますように~ Gulliver Get
※このグループ超好きで今でも聞き返すんだけど、解散しちゃったんだよね。残念。iTunes Storeでももう販売してなくて今は、どうしているんでしょう。デビュー作品から次の作品は曲調かわってますが、ボーカルの声が素晴らしいから関係ない
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説明会を終え、成り行きで一緒に帰る事になった。不器用で口下手で面白く無いからこいつは友達ができないのだろう。と自分が受けたく無い哀れみをそっくりそのままそいつに向けていた。話すこともないから「さっさと信号早く変わらないかな。」なんて考えていた。
「白鬼。」
なんで、こいつ呼び捨てやねん。さすが関西人やわぁ。
と一年話すことなくても移ってしまった関西弁で心でつぶやいた。
「ありがとうな、この間。ずっと独りだと思ってたから同じ事考えの奴いて嬉しかったからもっと話してみたくて。他に組みたい奴いたらごめんな、ありがとお」
なにこいつ、なんの事言ってるの。独りって自分一緒にランチする友達いるやん。 え、なに。「ありがとお」の「お」の部分で急に関西弁っぽくなるじゃん。
と混乱。
目があさっての方向を向いていたせいか、赤鬼は察して
「いや、この間。。。」
と慌てた様子で説明し始めた。
「授業中に五月蝿いと僕結構注意するねんけど、最初の方は皆んなも聞いてくれてんけど最近は慣れてしまっていくら注意しても聞いてくれへん。僕もバイトしてるから眠い時あるし寝てしまう事あるけれど、授業聞きたいって一人でも思ってる人おったら可哀想やろ。五月蝿いのだけは勘弁して欲しいねん。親の金で来てるんだから僕だって本当なら一語一句聞きたいしな。どこで何が役に立つかわからん。知識はあっても腐らへんし、敵になる事もないやろ。で、すっごい五月蝿い時があってな。いつもどうり注意したんやけど全然静かにならん。そんな事思ってたの僕だけなんかなぁ、ってもう黙るのは僕にしよ。って思ってたらな。白鬼めっちゃ怒鳴ったやん。」
あぁ、思い出した。確か、物理の授業だ。美容の専門学校とはいえど、美容師国家試験には物理とか化学の問題も出るのだ。その授業は外部の先生に委託されているが、物理の先生は大人しめで若い先生。 怒っても威厳がない。なおかつ声が小さい。
その日、筆記のテストの試験結果が出た日で、もともと理数系が得意だったのに物理で一問落とし、イライラしていた。
そんな最中、先生の声は小さい。周りは五月蝿い。限界を超えた。
「うるせーーーーんだよ、てめぇらギャーギャーピーピー中坊かよ。」
そう叫んだ。アドレナリン出まくっていた。それでも、前にいた生徒がクスクスと話の続きで笑っている。
考える前に足が出ていた。前の椅子を思いっきり蹴っていた。
「ねぇわかる?五月蝿いの。俺怒ってるの、ねぇわかる?そのあとにクスクス笑いやがって、喧嘩売ってんのか、こら。上等だまじ。その前におまえ俺の授業料はらえ。無駄にした時間を返せ」
隣の授業の声が聞こえるくらい静かになった。
「怒ってくれてありがと。じゃあ続きね」
と先生の声が今までにないくらい通っていた。
いうまでもなく次の授業には何事もなかったかのようにうるさかったわけだが。
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「あぁ、あの時ね。俺の虫の居所も悪くて。高校じゃ俺も授業中起きてたことないし。弁当食べてから登校してたし。気持ちはわかるんだよね。おしゃべりにムカついた以前に、自分にもムカついてて。」
そんな事忘れてただけに、ましてやその事で感謝されるなどと思ってもみなかったから単純に驚いた。
「ずっと五月蝿いのを五月蝿いというのは正しいと思っててん。でも、誰もいい顔せんやん。強く言えば、宥められるのは何故か僕やし。それちゃうやん、注意されるべきは僕ちゃうやん。ってずっと思ってた。 だから、普段何も喋らん白鬼が怒った時はびっくりしたし、嬉しかった。」
あぁ、なるほど。 最初は、自分を援護射撃してくれた事に感謝されているのかと思ったが、そうではなかった。 自分の正義がゆるぎそうで、まわりがおかしいんじゃなくて、自分がおかしいんじゃないか?ってところまでいってて、そこで自分の正義に同類項であろう意見と出会う。つまり、俺への感謝というより、神への感謝といったところか。オーマイゴッドと欧米人なら心で叫ぶところだ。。。。違うか。
しかし、この感謝の意は当時の私の考えとは矛盾するところがいくつかあった。 何故なら、親の金どうこうはどうでもいい。自分が聞きたいから自分の邪魔になるから怒りが湧いたわけで、誰かのためにも何かをせねばという使命感みたいな物はなかったから。
すべて自分のために。この世界も時間も人も。邪魔なものはいらなかった。人間という生物としての欲求が必要だと叫ぼうとも無視した。そういう無情な人間に憧れたし、そうしないと世界では通用しないと思っていた。
でも、その時芽生えたのはそんな事ではなく、ちょっと話してみたいな。というところだった。 そして、誰かとつながる事に安心と嬉しさを覚えた。というか思い出した。
初めての海外。初めてのパスポート。残り一年弱の学生生活を残し、自分の描いた大人と、将来が近くなった気がした。
※その時のヘビロテ。
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パリ・シャルルドゴール空港に着いて漸く、自分の国じゃない事を思い知る。
お金が違う、言葉が違う、空気が違う。
不安ではなく、期待感。 世界とはどこかわからなかったが、その世界の中にいる気がした。
外国の人が日本に着くと、発酵の国日本による酵母の何とも言えない香りがする。とい人がいるらしい。
パリは、なんていうか土の匂いがした。
観光名所を一通りまわり、夜は現地サロンでのデモンストレーション。
シャンプー、カット、カラー。技術は何をとっても日本が一番だと思っていた。だから、日本人である自分が世界にでたら大きく羽ばたけるとおもっていた。
そして、パリ一等地にあるヘアサロンでのデモ。 衝撃だった。 接客業ではなく完全にアーティスト。切るための考えも違う。カラーも薬からして違う。 日本人でも千差万別髪質があるのに、そこにいたモデルだけで、中東系やアジア、欧米人と様々。髪も黒だけではもちろんない。
銀行の受付をしているという、女性のモデルの方はかなりのハイトーンだ。 もちろん、素の髪が明るいからそれで職場NGとはならない。 でも、黒髪にしたってNGにはならない。
日本より技術の幅が大きい。 引き出しの数が違う。 使えるプロダクトの数が違う。 サロンワークとアーティストとしてのショーケースが絶妙に混ざっている。
赤鬼も衝撃を受けた様子だった。 しかし、どこか納得していた。
部屋に戻る前にスーパーにより、ビールを買い、その日見た衝撃を話し合う。
技術がすごいというより、できる幅がすごい。感性がすごい。 まず、ハサミで切らない事があった。 日本にもレザーといってカミソリで髪を切っていく事はあるけれど、原理は一緒なんだけど、指にはめる形のレザー、フィンガーアーマーの爪部分がカミソリになった武器のようなもので髪を切っていく。 それがすごいとかじゃない。その道具が生まれる事がすごい。 自身の手のようにハサミを動かすのではなく、自分の手をハサミにしてしまう。いや、もうハサミではない。武器だな、あれは。
これだけではなかった。雪崩のように言葉かとまらない。
ふと。
今帰ってきた部屋が、もし一人だったらどうしていたのか。
話す相手もいなくて、ただただ満足しただけなのでは。。と。
「僕も衝撃やった。」
そんな思考を、遮るように赤鬼がいう。しかし、同じ衝撃でもその語勢は私のものとは明らかに違った。
「海外は日本とは違う、それは分かっててん。けど...なんていうかな。 日本でいいかな、と思う。僕は正直あれで全てのお客さんを喜ばせるのは無理な気がした。カットされてる最中のモデルさんめっちゃ不安そうやったで。国や文化が違えば、評価されるものも変わっていくんやろうけど、僕は日本で日本人として評価されるのが、目標になったな。」
思考が一瞬止まった。
赤鬼は落胆していたわけでも、なく同じ衝撃のなかで、自分がなりたい自分は日本にある事を悟ったようだった。
何が正解じゃない。誰になりたいわけじゃない。将来、なりたい自分がある。 そのフィールドが日本でしか叶わないと。そう、言ったのだ。
「きっと今日見たことも、ショー用のヘアカットだし全てじゃないと思う。 また、ロンドンにいったら別のもの見えるよきっと。」
私はとても赤鬼の意見が大人に感じていた。私はただ、新しいことをみて、知らないものに触れて興奮しているだけじゃないかと。新しいおもちゃをみせられた子供がはしゃいでるように自分が感じられた。
そして、また。
ふと。
今帰ってきた部屋が、もし一人だったらどうしていたのか。
そんなことを頭の片隅で考えながら、ビックマックは海外でもサイズは一緒で作り方が雑だった事、飯は意外といける事、そんな異文化について話しながら夜は更けていった。
その時はまだダンブラウンのダヴィンチコードが世に出ていなかった(翻訳されてなかっただけかも)ので、ルーブルのガラスのピラミッドを作中「パリの汚点」と揶揄する表現は後に物語を読んでいて「確かに」と頷いたものだ。
※学生の頃、本を読む事を始めたわけだが、それのほとんどが啓発本といわれるもの。あのときの私には確かに響いたし、今手に取っても、そのときと違う自分に必要な言葉が溢れてる。ただ、人生を過ごし、大人になった、もしくは卑屈になったため「いい言葉はいい人生をつくる。だけどお腹は膨らまない。」としたいところ。
※上記にもでてきた言わずと知れたダンブラウン著「ダヴィンチコード」です。翻訳もよく、謎解きに必要な資料なども添付されてる。携帯片手にググりながら読むもよし。人生ではじめて寝る間も惜しんで読んだ本。
翌週、ロンドンへ向けユーロスターに乗り込む。海の下を渡る新幹線のようなもの。
小さい頃通っていた塾の先生に「飛行機から日付変更線をずっとさがしていた」と言っていたのを思い出した。 探しはしなかったものの、国境を渡る、海を渡る、その瞬間がいつなのか。その瞬間を探して車内でそわそわしていた。
正直ここまで、手配された旅行なので、困ることは一切なく誘導されるまま旅路は文字通りレールの上をすすんでいっている。
初日、観光後自由行動となった。 飯がまずい、天気が悪いでいいところ無しできいていたロンドン。 しかし、なぜかここに人は集まる。やたらと高い。当時1ポンド260円もしたので、水のペットボトルが200 円弱。
きっと、日本で言えば何て事のない、渋谷の道玄坂の途中を歩いているような所なのだろうけど、どこを歩いていてもその風景に飽きる事はなかった。
パリのシャンゼリゼ通りはもっと煌びやかだと思っていたし、みんなオシャレなのかと思っていた。
まぁ、これは日本人なら寿司と天ぷら大好きみたいなステレオタイプなんだが、18年国外に出たこともない田舎育ちの当時の私を誰が責めれるだろう。
シャンゼリゼ通りで「枯葉」を聞いてカプチーノでもきめたい。と思っていたが、もちろんテラスでコーヒーしばくことなんてできるが、それ以上に人の多いこと。町の汚いこと。
ハイブランドの店舗にはアジア人がひしめいている。
全然外国っぽくない。そんなパリにちょっとがっかりしたものの「そんなもんだよね」とも思った。
だがしかし。ロンドンはどこに行っても何してても可愛いしかっこいい。
TUBE(チューブ)と呼称される地下鉄の入り口が所々に「undarground」の看板と一緒にある。
お土産屋にはそのマークがはいったTシャツまで売っている。
町を走る赤色の二階建てのバスの置物。パリの小汚い連結バスとは大違いだ。
英語圏、ヴィダルサスーンやTONI&GUYといった世界的に有名なサロンがあるLONDONだったが、観光でいうと私の中でパッとしなかったし、パリのホテルの朝食は絶品で、LONDONのホテルでは何を食べようか悪い意味で迷ったので、パリに気持ちが傾いていたところもあった。
ただ、街並み、治安の良さや雰囲気はロンドンの圧勝。
「最初っから君に決めていたんだよぉ、やっぱりロンドンですよー」
と心で浮気の言い訳をした。
しかし、頭ではすぐ日本に翻訳される。 日本の地下鉄のマークはそんなに覚えていないけれど、誰が公共機関のロゴが全面に押し出されたTシャツを買うのか、と。 バスだってそうだ。
赤色二階建てのバスはもちろんかわいい。でも、東急バスの置物なんて、どこのお土産やにもおいてないんじゃないか?と。
一瞬迷ったけれど、その思考が手を止めさせた。
「台所」と刺青を入れた外人を都内で見かけた事があるが、なんとなく、この外国のものがカッコよく見えてしまう衝動を経験した今、何でそんな文字を入れてしまったか、少しわかった気がする。
「白鬼、集合場所バス何分やっけ?」
近くの公園で座りながらビールを飲んでいると赤鬼が聞いてくる。
「うん16:00じゃなかった?」
「あかん、間に合わへん!!」
二人で、その場に置いてあったショッピング袋を持ち上げ走った。
自由行動前、引率の教師がこう言い放った。
「この場所に16時にバスを迎えにやります。早く帰りたい人は直接ホテルに戻ってもかまいません。ただし、16:30までに全員がホテルに戻らない場合、翌自由行動は無しになりホテル待機にします。」
全力だった。
道はなんとなく覚えていて、地図を見ながらバスも地下鉄も使わずに移動していたので、ホテルの位置は二人とも完璧だった。
道は混んでる。30分までにとはいっても、とりあえずバスよりは早くつかねばならない。
そんなに、荷物はないけれど、走りやすい格好はしていなかった。
革靴に細身のジーンズ、上はシャツにコート。
赤鬼は全身有名デニムブランドのセットアップにショルダーバック。
そんな、ロンドンにも、なかなか居ない格好をしたアジア人二人が全力疾走している。
その現状が途中可笑しくて息を切らしながら二人して笑った。
「これ、見方によっちゃひったくりのあとの逃亡やで。 警察きよったら、わるいけど盾にするで。屍は越えてゆくもんや。」
「くだらない事いってないで走って。 けっこうギリギリだから!!」
赤鬼は普段からそうだけれど、抑制されるとそれが「フリ」だと感じてしまう関西人気質でそれからもお喋りもとまらず、
「ウィーアージャパニーズ、ウィーアーブラザー、ウィーアーチルドレン!!」
とずっと連呼していた。
なんでも可笑しく感じた。 海外に来て、街中を走り回るとは思ってもみなかった。
主人公感が半端じゃなかった。
「いやーなんとかセーフやったで」
「はぁ。。赤鬼が。。。はぁっ。喋らなきゃもっと早くついてたよ。。っぁぁ」
腰に手をついて息を整える。
ロビーに集まる他の生徒数からして最後ではないようだ。というよりむしろ、ほとんど集まっていない。
「自分らめっちゃ汗かいてるやん!なんでそんな走ってきたん?」
先生が笑いながら寄ってくる。
「いや、もうギリギリで。時計見たらバスがでる時間過ぎてたんでダッシュですよ。」
「え、まだ一時間も前やで!」
赤鬼と顔を見合わせ、笑う。
そうだった。パリとロンドンは1時間時差があったのだ。
ロンドンでもいつくかの有名サロンでデモンストレーションを見学。
私は相変わらず感激し、赤鬼は相変わらず日本の技術への確信を得ているようだった。
そうして、「初めての海外旅行」は終わっていく。
赤鬼以外にも、フライト中、隣だった子や、レストランで一緒だった子たち。
何人かの生徒と話した。
一年間必死に守り続けて来たものは、壊れるというより溶けていったという表現があっているだろう。
張り詰めていた肩が軽くなった気がした反面、背中には過去の自分を裏切ったような罪悪感もあった。自分の16年出会ってきたもの、事を自分で否定してしまうな。
友達や、娯楽というものがアニメカイジで節約の最中飲んでしまうビールに思えてしょうがなかったのだ。
※このシーンは本当に最高です。
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自己紹介その②に続く。。。。(なげぇよ!!)